2026年9月、厚生労働省および全国の労働基準監督署による実務運用において、労働時間管理に関する重大な方針転換が行われました。それが、「月45時間を超える時間外労働に対する一律の是正指導」の見直しです。
世間や一部のニュースでは「残業45時間の規制緩和か?」と取り沙汰されていますが、労働基準法という「法律そのもの」が書き換わったわけではありません。この行政運用の変更が意味する本質的な構造と、企業が実務上直面するリスクや対応策について詳細を解説いたします。
1. 何がどう変わったのか?(法規制と行政指導の非対称性)
今回の見直しを正確に理解するためには、「法律上のルール」と「労基署の指導スタンス」を完全に切り分けて捉える必要があります。
- 変わっていないもの(法律上の上限規制)
- 労働基準法第36条に定められた原則的な時間外労働の上限である「月45時間・年360時間」という法定上限そのものは1ミリも変更されていません。
- 臨時的な特別の事情があって特別条項付き36協定を締結する場合の限界(年720時間以内、複数月平均80時間以内、単月100時間未満など)も、そのまま厳格に維持されています。
- 変わったもの(労基署の監督指導の着眼点)
- これまで労基署は、特別条項の有無や個別の事業実態にかかわらず、月45時間を超過しているという事実が認められるだけで、一律に「45時間以内へ直ちに削減しなさい」という指導を優先する傾向がありました。
- 2026年9月以降は、この「時間数のみに形式的に縛られた一律の是正指導」が廃止され、焦点が「36協定で定める健康及び福祉を確保するための措置(健康確保措置)が現場で実際に機能しているか」の重点確認へとシフトしました。
つまり、「一律で45時間に抑えろという指導の縛りが緩んだ(=状況次第で45時間を超える残業が形式的に許容されやすくなった)」ように見えて、実態は「より個別的かつ実質的な監査へ移行した」というのが正確な姿です。
2. なぜこの運用見直しが行われたのか?
このような行政運用の転換に至った背景には、産業界(特に製造業、物流、IT、医療・介護など)からの根強い要望と、硬直化した現場実態との深刻なミスマッチが存在します。
- 「画一的な時間制限」と「現場の実態」の摩擦
特別条項付き36協定を適法に締結し、法律上は月100時間未満の範囲で業務を回している企業であっても、労基署の実務指導が「一律45時間」を前提に動いていたため、プロジェクトの繁忙期や突発的なトラブルへの対応において大きな支障をきたしていました。 - 「時間の長さ」から「実質的な健康管理」への軸足の移行
単に「月45時間を超えているからダメ」と機械的に絞らせるのではなく、産業医による面接指導や勤務間インターバルの確保など、「労働者の健康障害リスクを防ぐための実効的な措置が本当に講じられているか」を基準に個別企業を見る方針へと、国が舵を切った形となります。
3. 企業が絶対に勘違いしてはならない「最大の罠」
このニュースの見出しだけを追い、「残業の制限が緩くなったから、今まで以上に残業をさせて現場を回していいんだ」と安易に解釈する経営者や人事担当者がいれば、それは致命的な地雷を踏むことになります。
① 「健康確保措置」の実施ハードルは実質的に跳ね上がっている
労基署が「時間数だけで一律に指導するのをやめる」ということは、裏を返えば「では、45時間を超えて残業させるだけの、完璧な健康管理体制とそれを証明する客観的なエビデンスが本当にあるのか?」という点を、よりシビアに個別監査するということです。 特別条項の書式に形だけ健康確保措置を記載していながら、実際には何も実施していなかったり、記録を残していなかったりする企業に対しては、かえって重い行政指導や是正勧告が下されるリスクが高まっています。
② 民事上の安全配慮義務・労災リスクは1ミリも甘くなっていない
労基署の指導方針が変わろうとも、過労死やメンタル不調にまつわる企業の損害賠償責任(民事上の安全配慮義務)の基準が緩むことは絶対にありません。万が一の過労による事故や疾患が発生した際、「行政の指導スタンスが変わったから45時間を超えて働かせた」という言い訳は、裁判において一切通用しません。
4. 今後、企業が直ちに講じるべき実務上のステップ
今回の運用見直しを契機として、企業が自社の労務管理において直ちに着手すべき事項は以下の通りです。
- 36協定と特別条項の記載内容・運用の点検
自社の36協定における特別条項の発動条件や、実際に月45時間を超えた月における労働時間の推移を正確に把握します。 - 「健康確保措置」の実施記録の完全な保全
協定に定めた措置(医師による面接指導、勤務間インターバルの確保、健康診断の追加実施など)が実際に運用されているかを確認し、その「実施日時」「対象者」「結果の記録」を確実にファイリング・データ化しておきます。 - 勤怠管理データの客観的精度の向上
自己申告に依存した曖昧な時間管理を排し、入退館記録やPCの稼働ログなどの客観的データと突合できる仕組みを整え、隠れ残業や記録の不備を排除します。
まとめ
今回の指導方針の見直しは、決して「残業を野放しにしてよいという免罪符」ではありません。むしろ、形式的な届出や帳尻合わせの労務管理が通用しなくなり、「いかにして実効性のある健康管理体制を構築し、それを証明できるか」という本質的なガバナンスが問われる転換点であると言えます。
企業は、表面的な「時間数の増減」に一喜一憂することなく、自社の労務管理体制全体の強靭化を急ぐ必要があります。

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